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ミッセイ・ノート

2010年5月分

エゴイズムに満ちた技術(長いよー)

 夜、ふと本棚から何年か前の雑誌を持ち出してパラパラと読んでいたら、内田樹さんが医療について書かれていた文章に惹きつけられた。
 結構、ロング・インタビューだけれども、最後の部分だけを読んでも、これから僕たちの生活の中での「仏教」に対するヒントが溢れているような気がする。ちょっと長いけれど、「写経」するつもりで、引用してみよう。
「子どもを見ても老人を見ても病人を見ても怪我人を見ても、“これは自分かもしれない”っていう想像が働けば、自分はどうふるまえばいいのかということは自ずからわかるはずなんです。でも、自分は子どもでも老人でもないし、病人になることも怪我人になることもないと信じ込んでいる人にはそれがわからない。そういう人の眼から見ると、弱者というのは、すべて邪魔者に見えてくる。でも、弱者っていうけれど、幼児も老人も病人も障害者も、それは、時間差のある自分自身なんです。人は誰もかつて幼児であったし、いつか老いていく。高い確率で病人になり、障害者になる。だから、ここにいるこの人は、私の昨日の姿かもしれない。明日の姿かもしれないというふうに想像が働くはずなんです。そういうときにフェアな態度をとるためには、別に破格の克己心なんか必要じゃない。“これは私かもしれない、だから、この人の治療を優先しよう”というのは想像力をともなったエゴイズムなんだから。自分自身を救うために救える限りの他人を救う。論理的にはそうなるはずなんですよ。そういう想像力の使い方が今はみんなものすごく下手になっていますね」(「SHIGHT」2008,AUTUMM,ロッキン・オン)
 中沢新一さんの本だったか、ネパールの僧院の子供たちが集団で牛の屠殺場を訪れて、死んでいく牛をひたすら見続け、それが前世、自分自身の母親だったかもしれないことを思い浮かべることで、自分の心の中にある慈悲を見出す、といったシーンがあったように記憶しているけれど、そんなことを思い出した。
 僕の印象では、仏教では「私」という範疇がさらに、曖昧で、だからこそ浸透したり融解したりする動きがあるように感じているのだけど、内田先生のこの言葉は、「生活仏教」のヒントになるなぁ。
 と思っていたら、今朝の朝日新聞、土曜版「be」に、内田先生登場である。「大学は、建学の理念のようなきれいごと、建前論をもっと打ち出すべきですね」
 これは、もう、仏教も本当にそうだと思った。今の僕に僧侶としてのキャッチコピーを付けるとしたら、「綺麗じゃない私が、今から、綺麗事を言いいます」とでも、言いたくなる。
 えーっと、今日のミッセイ・ノートは長いのである。
 少し前に、東京の書店を編集者の方と挨拶回りをしていた。そこで、書店の女性と「私、厄年なんですよー」と世間話をした。僕は、坊さん。なので、こういった話になることは、結構多い。その女性と別れた後、編勇者の方と「厄って、本当にあるんですかねー」という話になった。そこで、出た話は結論から言うと「想像したことは実現しやすい」という論理であった。彼は内田先生と交流が深く、その話も織り交ぜながら語られる話に、「はー、なるほどなぁ」と深く膝を打った。そのことを、僕はおりに触れてよく思い出すのである。
 先日の散歩の中で、その事をまた考える機会に巡り会った。
 僕は、身体のバランス感覚を調整しようと、車道と歩道の間にある高さ15センチ程のブロックをずっと歩いていた。ほとんど小学生の登下校風景である。関係のない話だけど、僕はこのブロックに高校生の頃、自転車でまともにぶつかったことがあって、死ぬほど肛門が痛かったことがある。「血が出たかもしれない」と思い、家に帰ってパンツを脱ぐと、驚くことに、血は出ていなかったが、パンツが破れていた。本当の話である。
 そのブロックを歩きながら、「もしここが断崖絶壁で、足をすくめながら歩いていたら、落っこちる可能性は格段に上がるだろうな」と思った。そして、それが「想像することは、実現する可能性が上がる」ことでもあるなと思った。
 他のことも考えた。「落ちる」時と「落ちない」時の、身体的な違いってなんだろうと思ったのだ。それをひとことで言うと、「力が入って、関節や筋肉のあらゆる場所が堅くなっている」ことだと感じた。
「力を抜いていけよ」
 スポーツの経験のある人であれば、コーチからこういうことを言われた経験は一度や二度ではないだろう。そして、必ず思っていた。
「それができりゃ、苦労しないよ」
 しかし、大事な場面や絶体絶命の場面で、「能動的に力を抜く」という「エゴイズムに満ちた技術」というのが、ここでも必要とされそうである。
 これも、“仏教関連事項”にメモだなぁ。「心と身体に能動的な弛緩を求める際の技術」そういう風にも仏教を捉えられるね。

***

i-Pad、ちょっと欲しいなぁ。

母がニュースをみて、

「twitter買うの?」

と言っていた。
それぐらいの感性がちょうどいい気もする。


YouTube: iPadの説明するけぇ、よう聞きんさい。

生で会う

 「辻説法」(つじせっぽう)という言葉があります。道端に立って説法することですが、古くから、こういった僧侶達がいたことが伝説に残っています。松山で会合がある時などに、夜の街を宿泊先まで歩いていると、路上で歌う若い人を見かけます。
「今、僕が深夜の酔っぱらい相手に、法話を始めたら、どうなるのだろう?」
 なんて、ふと考えることがあります。酔いに任せて絡み出す人、思わず足を止めてしまう人、おもしろ半分で仲間と冷やかすやんちゃな若者達、とにかく怒り出すおっちゃん。色々な人たちが思い浮かびます。
「考えてみたら本を書いたり、インターネットで文章を伝えることも、ある意味では現代の辻説法みたいなものなかな…」
 なんて考えもしましたが、似ている部分と明らかに違う部分がありました。
 違う部分は、辻説法は「実際に会う」ということです。どちらが、「いい」「わるい」という話ではないのですが、これは大きな違いだと思います。
 一度、カウンセリングの勉強をしていたことがあるのですが、このカウンセリングというものも、肌を付き合わせて、生の“生き物”同士が「会う」ことに、その大事な意味が含まれていると想像しています。今、自分が行っている生活や仕事の中での行為が、「生」なのか、そうでないことなのか、それを少し考えることは、小さくはない意味がありそうです。

憶えている不正確なこと

 村上春樹さんの『シドニー!』という本があるのだけど、その本に、トラベルライティングの基本について書かれてあった箇所があった。それは、端的にいって「とにかく、どんな些細なことでも、メモをとれ」という話である。人間は、どんどん忘れる。だから、書き留めていくしかないんだ、という話であったような気がする。
 村上春樹さんの著書には、この種の「金の智慧」が書かれていることが、(主にエッセイにおいて)あり、油断ならない。僕が他に憶えているのは、『はいほー』だったとおもうけれど、(これは自信がない)、書けない時は、書かなくていいから、他になにもせずに、毎日決まった時間、机に座って「ぼーっと」する、という方法である。この方法は他の仕事にも応用の利く、すごい方法だと思っているのだけど、なかなか、どうして簡単ではないんですよ。これは村上さんが、海外の小説家の創作法から学んで、実践していることだったように思う。
 ついでに、最近、改めて「なるほどー」と目を開かされたのは、『若い読者のための小説案内』(だんだん書名もあやふやになってきた)に、書かれていた読書会における読書法である。これも、記憶なので興味がある方は、本を読んで欲しいのだけど、この本は色々な「本」をテーマにして、アメリカの大学や日本の編集者の前でおこなった授業のようなゼミナールのようなものの記録である。そこで村上さんが勧めた読書法は、1、部分的に暗記してしまうぐらい何度も読む。 2、些細なことであっても(些細であればあるほど好ましい)、疑問点や思ったことを、書き留めていくこと。 3、出来る限り(無理に、という意味ではない)冷笑的であるよりも、その本や登場人物を好きになろうとすること。(だって楽しむために本を読んでいるのだから) 
 正確にそういう内容だったか自信がないけれど、色々なことに応用できそうな素敵なスタンスですよね。もちろん、仏教や宗教を考える時にも大いに参考にできそううだ。

 というわけで、いつもの「ほぼ日」手帳と同時期に買ってあった、大きめのほぼ日手帳、「カズン」にメモを書きはじめたのだ。(めくってみる)そうそう、NHKで三沢厚彦さんがトップランナーに出ていたのに、見逃していたので、はじめてインターネットの「NHKオンデマンド」で、番組を購入してみたんだ。マックでも見られるようになっています。

 三沢さんの回もおもしろかったのだけど、オンデマンドでずっとみたかった糸井さん司会の番組「YOU」も観ることが出来た。しかも、坂本龍一さんの音楽教室。これもメモをとっていたんだったけれど、いま、見つからない。こんな感じだったろうか。

1,何度も何度も時間をかけて、自分の好きな音をさがしてね。

1,自分の好きな音を恥ずかしがらないでね。人の好きな音を馬鹿にしないでね。

これも、ぜひ、みなさん、観られるといいと思いました。

特別な日を思い出す

 以前、しばらくブログを毎日書いていた時があった。

 なかなか、心理的に「どうなんだろう?」と思うこともあったけれど、いいこともあったように思う。そのひとつは、「いつ、なにがあったかを」を、メモのように残しておけることだった。

 出版社ミシマ社の三島邦弘さんが、初めて栄福寺を訪れてくださった時、その日、自分にとってどんな1日だったかを、ふと思い出したくなって、日記をさかのぼってみた。

 日付はマックの「iPhoto」で、二人で撮った記念写真を探し出して、その日を見ればすぐにわかる。それは、2008年9月20日だった。その日のブログのタイトルは「特別な日」。

____

「特別な日」


昨日は、
テレビの収録の後、
なんだかんだで、
ぐったりと疲れたのですが、

夜は今治市が主催する講演会に行ってきました。

市がやっている色々なサービスって、
知らないものがけっこう、あるんですねぇ。

***

今日は、
自分にとって、
とっても特別な日だったと思っています。

結構、遠い先まで、

「今日という日」

を憶えているような日になるような予感がします。
そうなって欲しい。

***

気候の方も、

「台風一過」で気持ちのいい天気。

ちょっと、
頭を動かしすぎて、
頭に血が上ったような感じだったので、

夜に父と一緒に、
犬のサクラの散歩に行きました。

サクラも妙に興奮していた。
(これはいつもだけど。)

_____


 僕にとって、今となっては本当に特別な1日だったけれど、僕はもう、その瞬間にその日が特別な日になるなんて、知っていたんだな。人間の直感は、馬鹿にならない。
 
 少し前に、しばらく人と一緒に時間を過ごすことがあった。僕にとっては、多くはない、心の中身をほとんどどそのまま見せられる人だ。その時に、

「本のこと、届いているみたいで、よかったね」

 と言われた、

「うん。でもね、本当に三島さんに感謝だよ。それに尽きるよ。
 色々な人に助けられてきたけれど、心からそう思える事って、本当に幸せなことだね」

「うん。本当にそうだね」

という会話をした。

 聖職者と時々呼ばれる僕が、自分でも言うのもなんだけれど、僕は穏やかなばかりの性格ではない。
 時々、そう言われるのは、そうでない自分をよく知っているので、出来る限りセーブしているからだと思う。

 でも、心から穏やかな気分で、そういう会話をさせてくださった、ミシマ社のメンバーと三島さんに出会えたことが心からうれしい。

 また呼んでもらえたら、力いっぱい、おもしろいこと、うれしいこと、したいな。

 母が撮ってくれた二人の写真は、設定がおかしくなっていて、最初の何枚かは心霊写真みたいだ。でも、今見かえすとその時の自分の気持ちがよく表れている気がする。

 河合隼雄さんに教えを受けた箱庭のセラピストの方がおっしゃっていたけれど、大切な箱庭の写真を撮る時には「不可解な光」が映り込むことがよくあるらしい。

「不可解な光」って、なんだかいいな。

なにか物語の始まりのようだ。


100511

一応、これからの「山歌う」の編集方針。

こんにちは。

このウェブサイト「山歌う」は、
基本的に様々な読み物を月1ペースで読めるように開始したのですが、

webの準備をはじめた頃に、
「本」の企画が動き始め、
また、その『ボクは坊さん。』が、
たくさんの方にお読みいただき、
様々な方面で好評をいただいている状況の中で、

なかなか、最初、プランしていたような更新を行えていません。
(しかし、このような場所を用意しておいて、とてもよかったと思います)

本当に有り難いことに、
本以外でも本でも、
「密成とこんな仕事をしてみたい」というお話をいくつか頂いています。
(取り組むかどうかは、未定です。僕はたくさん書けないタイプだと思っています。)

また、自分の「今」できることを考えれば、

文章を書くという行為を通しては、
「本」というメディアの中で出来ることに注力したほうが、
多くの人にとって「うれしいこと」なのかもしれない、
と考えることもありました。

しかし、ウェブでこそ、出会える人も多いはずですし、

このウェブサイトの雰囲気を楽しみにしてくださっている人も、
期待してくださっている人も、
僕が考えていた以上に多いようですので、

今の状況の中で、
こんな更新、内容をひとつのほがらかな目安にしようと思います。

【ミッセイノート】
・基本的に、土曜の夜か日曜日に更新予定。なにかご報告することがあった時や、なんとなく書きたい時にも書こうと思います。

【写真日記】
・水曜日、更新予定。不在の場合は、違う日にします(他の連載も同じ)。もしかしたら、「ミッセイノート」と同じタイミングの更新にするかもしれません。

【おしらせ】
今後も現状と同じようにメディア掲載やお知らせを掲載します。


【続・坊さん】
・7月から某サイトで出版を視野に入れながら連載予定(月1)の文章を、何週か遅れで、掲載予定です。「坊さん」(ほぼ日)、『ボクは坊さん。』(ミシマ社)の続編というか兄弟のような内容にしたいと思っています。

【思い出す空海】
・月1で21日周辺に掲載予定。当初より、思いっきり僕のコメントを短めにして、ウェブ上でさっと2分ぐらいで言葉に触れられるものを目指します。

【仏を感じるコトバより】
・月1で1日ぐらいに掲載予定。「思い出す空海」同様、とても短い時間で読める内容にしようと思います。

【山ラジオ】
・月末に更新予定です。おしゃべりでお届けします。

【特集】
・毎月、15日周辺に掲載予定。ゆるーく、気になっていた「なんか」を「やってみたりする」コーナーです。たぶん。

【栄福寺ソングス】
・ここもなんでも、できるコーナーですが、現状、毎週金曜日に「写真」や「顔」、「言葉」を掲載予定です。

******


まとめるとこういう予定です!(自分へのメモ用)

《週刊ペース》

・日曜or土曜「ミッセイノート」

・水曜日「写真日記」

・金曜日「栄福寺ソングス」

《月刊ペース》

・続・坊さん(7月から掲載予定。掲載日未定)

・1日周辺「仏を感じるコトバより」

・15日周辺「特集」

・21日周辺「思い出す空海」

・月末「山ラジオ」

《随時》

・お知らせ

空に

昨日は、
高野山大学時代の同級生であり、
僧侶修行の仲間でもあったお坊さんの結婚式に、
出席する予定だったのですが、

住職としてお葬式を拝みに行くことになり、
昨日がお通夜、今日がお葬式でした。

お坊さんには、
葬儀の予定と他の予定が、
不思議と重なる人と、
不思議と重ならない人がいる、というのが
僕の個人的な意見なのですが、

自分はわりと重なる人です。

故人の息子さんである喪主さんは、
僕の小学校の時の先生でもありました。

「あゆむ!いやっ、住職、よろしく!」

と悲しい気分の中で、
笑顔で話しかけてくださる、
先生と自分たちなりのやり方で、
心を込めた葬送の儀式ができたように思います。

初七日法要では、

戒名に使った「観」という字から
「観賢さん」というお坊さんの話をしたり、

「慧」という字から、

「智」と「慧」の話をしたり、

「明」という字から明恵さんの話をしたりしました。

なんとなく、
そのままお寺に帰る気分になれず、

葬儀の帰り道に僧服のまま、
高校時代の先生の個展に行ってきました。
(日本画家でもある)

今回は先生が持っている、

古いおもちゃを水彩画で書いたシリーズで、
特にライナス、ペパーミント、チャーリーブラウンの、
スヌーピーシリーズはよかったです。

「白川君、これ、おもしろかったので、あげる」

といって、
『野ブタ。をプロデュース』で著名な
白岩玄さんの『空に唄う』を、
贈ってくれました。

「この作家、気になってたんですよ」

「お坊さんが出てくるんだよ」

***

そういう1日でした。

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