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ミッセイ・ノート

生で会う

 「辻説法」(つじせっぽう)という言葉があります。道端に立って説法することですが、古くから、こういった僧侶達がいたことが伝説に残っています。松山で会合がある時などに、夜の街を宿泊先まで歩いていると、路上で歌う若い人を見かけます。
「今、僕が深夜の酔っぱらい相手に、法話を始めたら、どうなるのだろう?」
 なんて、ふと考えることがあります。酔いに任せて絡み出す人、思わず足を止めてしまう人、おもしろ半分で仲間と冷やかすやんちゃな若者達、とにかく怒り出すおっちゃん。色々な人たちが思い浮かびます。
「考えてみたら本を書いたり、インターネットで文章を伝えることも、ある意味では現代の辻説法みたいなものなかな…」
 なんて考えもしましたが、似ている部分と明らかに違う部分がありました。
 違う部分は、辻説法は「実際に会う」ということです。どちらが、「いい」「わるい」という話ではないのですが、これは大きな違いだと思います。
 一度、カウンセリングの勉強をしていたことがあるのですが、このカウンセリングというものも、肌を付き合わせて、生の“生き物”同士が「会う」ことに、その大事な意味が含まれていると想像しています。今、自分が行っている生活や仕事の中での行為が、「生」なのか、そうでないことなのか、それを少し考えることは、小さくはない意味がありそうです。

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