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ミッセイ・ノート

2010年7月分

冷凍イカの香りから考える

瀬戸内海の大島に、お坊さんたちで、
子供合宿をしました。

なんだか、とても気温が高く、
心配していましたが、

島遍路を体験したり、
ドッチボールをしたり、
法話をしたり、

自分自身も子供と話したりしていると、
なにか、おもしろいです。

***

今日は両親が不在だったので、
昼ご飯にラーメンを作っていました。

お肉を入れようと思ったのだけど、
なかったので、

冷凍していた、
イカの一夜干しを入れました。

人生初体験です。

相性は可もなく不可もなくといった感じなのですが、

大きな問題点は、
イカが少し、冷蔵庫の味が付いていたことです。

僕はこの「冷蔵庫の味」がとても苦手です。
(想像できますか)

で、
考えたのですが、

最初、食べた時に、

「あきらかに、
 最初からうまくはないもの」

ってありますよね。

たとえば、

イカの塩辛とか、
くさやとか、
コーラとか、
お酒とか、

って「初めて食った」

時に「うまい」と感じる人って、
ほとんどいないと思うんです。

では、
なぜ食べ続けるかというと、

「経験則から"うまくなった”と、
 言っている人が、 周りに結構いる」

からだと思うんです。

ホルモンとかゲテモノ系を嫌う女性が、
結構おられますが、

あれは、
ある見方から言えば、

「自分の直感を信じている」

違う言い方をすれば、

「基本的に他人を信用しきっていない」

のかな。
と思いました。

相対的に、
女性にそういう傾向が、
多いように感じるのは、

子供を、
他人がどうのこうのではなくて、

自分の感覚をもってして、

「生きのばさせる」

強い意志があるからでしょうか。

なんて想像しました。


脳が「うれしい」と感じるのは、

「いつもと同じだ!わーい」

という感覚と、


「わーい。これって初めて!」

という二系統が存在するように、
僕には思えて、

「うれしい」

という感覚の不思議さについても、
しばらく思いを馳せました。

しかし仏教は、
(僕が思うには)

この、

「うれしい」

というものに従属的な生き方を、
根本的に見直そうとした"試み”のように、
感じることもたまにあるし、

密教は、

「うれしい」

を使っても、
同じ場所にいけるよ。

という提言のようにも感じることがあります。


やってみる

大三島の大山祇神社にお参りしてきました。

新築されていた「総門」が美しく、
近づいただけで、
香ってくるヒノキの香りが気持ちよかったです。

「今治市 伊東豊雄建築ミュージアム」

の工事も始まっていました。

***

最近、

「とりあえず、やってみる」

ことの大切さを思い浮かべることが多いです。

頭で考えて、

「やめておこう」

と終わってしまうことも、
当然、少なくはないのですが、

「うまくいかなかったけれど、
 ここまで来てよかったな。

 別のことで出会いがあったな」

「あきらめついたな」

という気づきが少なくないような気がしています。

***

本日、7月20日、
愛媛新聞のコラム「伊予弁」も掲載されています。

昨日、7月19日の「北海道新聞」の大型企画で、
私のことが掲載されているようです。

北海道の読者の方、
発見メール、ありがとうございました!!

今週は、
地元のお坊さんたちとの「わんぱく道場」の週です。

演仏堂

栄福寺に建築される新しい「建物」、
「演仏堂」(えんぶつどう)について聞かれることが、
何度かありました。

この場所は、今、

「仏の教え」

というものを、
見つめた時に、
シンプルに、

「こんな場所が必要なんじゃないかな・・・」

と思った場所です。

それは、

「仏の教えを受け取り、それを、
 いろいろな方法で、
 "伝えること”を考える場所、提案する場所」

です。

言うなれば、栄福寺の、
大きく言えば「仏教」の、

スタジオやアトリエ、編集部のような場所が
お寺にあれば、いいんじゃないかと思いました。
(ミシマ社が自社でワークショップをするように、
 時にはそんなことも、できるんじゃないかと、
 想像したりします)

見かけは、
場所の声に耳を澄ませんがらも、
いわゆる伝統的な姿ではありません。

僕は伝統的な存在も思想も、
大好きです。

でも、
そこで、自分ができること、やるべきこと

を考えた時に、

「明るい気持ちで、新しい声を出してみよう」

そんなメッセージを演仏堂の風景を通して、
伝えたかった。

また弘法大師空海を、

「弘仁のモダニスト」

と呼んだ方がおられましたが、
空海さまも、
「新しい、原初」のようなものに対して、
本当に敏感な方だった感じています。


そして、
力足らずの僕が、
それをうまく実現することができなかったとしても、

「仏教に夢をみた」

ひとつの「旗」(フラッグ)として、
その堂をこの場所に提示しておきたいと思っています。

文章というヌード

今日は日天(にってん)さんの縁日ですので、
徒歩とバイク(カブ)でお札とお餅を配ってきました。

なんだか、
体がなまっているのを実感しました。

途中でキュウリとブルーベリーを
農家の方から頂いたりしながら
ふと山を見上げると、

「いつかこんな風になりたい」

と思うことが、
僕自身、とても多いけれど、

「一日一日を、楽しむ」

そんなスタンスも大事にしたいな、と思いました。

それは瞬間、瞬間を楽しむ、味わう、ようなことでも
あるのでしょうね。

***

最近、

「文章を書くコツってあるんですか?」

と何回か聞かれた。

こんな脱力ブログを書きながおこがましいことだ。

でも、
そんなこと、考えることはほとんどないけれど、

その人に伝えたことは、

「できるかぎり正直に書くこと」

だった。

僕はその人が好きだし、
考えていることも色々な人の興味が持てることだと思う。

ただ、
文章を見せてもらうと

「どう思われるだろう」

「立場もあるし」

という気持ちが強く感じられるような
気配を僕は感じた。
(これはお坊さんに多いような気もする)

僕も当然、

「どう思われるだろう」

「立場もあるし」

と考えることもあるけれど、
できる限り「さわやかな素」のようなものが、
めいっぱいあるような文章が書きたいと思う。

細かいテクニックよりも、

その前にある、
文章を前にした、

「ヌードになる覚悟」

のようなものが、
僕の「文章術」なのかもしれない。

ヌードと同じように、
見る人のサービスにならないような、
過激さは、
あまりうれしくないよね。

「そういう人もいる」

のも、また当たり前だけど。

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