メインメニューをとばして、本文エリアへ

ミッセイ・ノート

「考える人」(N045,新潮社)ー森田真生、「数学と情緒」を拝読ー

「考える人」(新潮社、NO45)ー数学は美しいかー入手。独立研究者の森田真生さんの寄稿「数学と情緒」(テーマは岡潔)を読みたかった。考えてみると、数学も算数も、学校での成績は赤点付近が定位置だったけれど、森田さんのライブを聞いた時、心が躍動するような、そして僕の感じている「仏教」が届けたいもの、との親和性を感じずにはいられなかった。
 まずパラパラと他の連載を読んでいると、「西国(改行)分寺(にしこくぶんじ)」という部分を「さいごく」と読んでいる自分を発見し、「文字というのは、“単独”ではなく無意識に前後関係を取り込むことで、総合的に認識してるんだな」と改めて感じ、物事を単立的に考えるよりも、前後左右、文脈の中で感じることの大切さを漠然と思う。
 そこにきて、森田さん寄稿。マグロが「力学的な矛盾」と言われるほど、“とてつもなく速い”という現実から浮かびあがってきた仮説が、自分の身体を用いて周囲の渦や水圧に勾配を作り出して、人工的な世界では「障害物」としてしかとらえられなかった海水を“行為を実現するためのリソース”としてとして用いてることだった。
 常々、仏教を時に、オルタナティブでラディカルなものでありながら、同時にどこか合気道的(やったことないのですが)な、「現実的にも抽象的にも敵を作らない作法」のように感じることがあり、ここでも仏教を想起させられた。
 おもだった内容は、興味を惹かれた方は、ぜひ「考える人」を読んで頂きたい。
 しかし、その中でも数学を意味する英語「mathematics」がギリシア語に由来し、「はじめから知っていたことをあらためて知る」という意味が込められていることを知り、あらためて感銘を受ける。空海はその著書『般若心経秘鍵』の中で、「去去(ここ)として原初に入る」と言い放った。この文脈の中で、紹介するのは、あまりにも僭越ながら、拙著『ボクは坊さん。』では、この空海の言葉をあげたあと、このような私観をスケッチした。「死を想いうかべ、生の中で光を放とうとすること。仏の教えに耳を澄ませること。そのことは、まったく新しい場所に向かうというよりは、まるで忘れてしまったなにかを思い出すように前に進むことなのだろうか」
 イギリスの哲学者アンディ・クラークの『現れる存在」での言葉「心は脳から漏れ出す」“mind leaks out of the brain" という言葉からは同じく空海の「わが一心の世界を語ろうと思うと それは日月星の三光が中天に明るく輝いているもの」“一心の趣を談ぜんと欲すれば 三陽 天中に朗(あき)らかなり”(『性霊集』)を喚起する。
 森田さんは、岡を語りながら話を続ける。「本来世界には自他対立などない。心は自然に漏れ出し、自然は心に流れ込む。肉体が定める境界など、幻影に過ぎない。そう言い切ってしまえば、宗教になる」(「考える人」NO45,63ページより)
 言うまでもなくこの言葉は「宗教」とし仏教の中心を貫いていると感じる。しかし、むしろそこに続く言葉に僕は、「今、日本での仏教」の可能性を感じた。
 「岡は宗教と科学の両方を知りながら、どちらにも安住しない人だった。肉体を伴う一生は、縁起する重々帝網の大宇宙にあっては、幻のようなものだ。しかしその幻に、その肉体の背負った箇所にこそ宿る情緒の彩りがある。」(同「考える人」同ページ)
 その「肉体の背負った情緒」こそ、「今、日本での仏教」のひとつの可能性ではないだろうか。今私たちは、サンガにおいて共同生活をしてはいないし、戒律の実行さえもおぼろけになっている。将来、日本において仏教の戒律復興運動のようなものが起こるかもしれないし、おこらないかもしれない。しかし、「現状私たちが手にしている物」を“行為を実現するためのリソース”として用いるとしたら、それはまさに「肉体の背負った情緒」ではないだろうか。それを僕は「途中の仏教」、もしくは「かなしみの仏教」と呼びたい。

« 「仏教タイムス」寄稿記事 | いろいろと。 »