二つの動き
最近、
連載を依頼してくださっている、
文章の原稿で、
「名前」について、書きました。
”名前には呪術性が宿る”
いつも思い出してしまう言葉ですが、
この「名前」について、
その「なんでもなさ」を見つめたのが
「仏の教え」のようにも感じます。
しかし、
大乗仏教、密教になってくると、
その「なんでもなさ」を意識しながら、
同時に、「名前」の重要性、神秘性が立ち上がってくる。
(ように思う)
仏教を生活のヒントにするために、
「名前」というものにどう対峙しうるか、
もっと考えたいと思いました。
恐らく、他のほとんどのトピックと同じように、
「同時に対極的な動きを求める」
というのが、
今の僕が「いいなぁ」と思う感じ方です。
「名前を自ら失いながら、名前を求める」
そういう動きが、
僕にとって、現代に仏教を用いるための、
大切な動きになるような気がするのです。
「あらゆるものが”私”性でないものでありながら、
どこかに”私”性の香りをしのばせている」
などというように。