6/21 第3回「"わからない”という表明」
「するとわが心は大日如来に通じたのであろうか、
真言の深妙な教えに接することができた。
しかし経文を誦しても、一向に理解できない。
そこで教えを求めて中国を訪れようと決心した」
(弘法大師空海「遍照発揮性霊集 巻第七」現代語訳)
「精誠(せいせい)感(かん)あって、
この秘門を得たり。
文に臨むも心昏(くら)し。
願って赤県(せきけん)を尋ぬ」
(同上、漢文、書き下し)
弘法大師が密教に初めて出会った時の、
印象的なシーン。
ここでの空海の態度は、
とても大事な示唆があるように思う。
「わからない」ときちんと表明していることである。
「ここにはどうにも、大事なものがあるに違いない。
しかし、自分には、いま、わからない」
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「わからないと言う事なんて、
あたりまえじゃない?」
そうだろうか?
僕たちは、ついつい、「わからない」ことを、
「わかったこと」にしていないだろうか?
自分を振り返ると、
そんなことが、無意識にいくつもあるような気がする。
「わからない」
そこから始まることもずいぶん、多い気がした。


